File.22 プリンスは終わらない

今でこそ、やれ連覇ならずとか、2位で残念とか言ってる訳だが、
1990年代の阪神タイガースは、Aクラスどころか、
最下位脱出すら困難な、暗黒時代がずっと続いていたのだ。
そんな暗黒時代の阪神タイガースに、華のある選手がいた。
その名は新庄剛志。愛称「プリンス」。

その新庄が、今年の日本シリーズの勝利をもって引退した。
日ハムのユニフォームに、赤いリストバンド姿。
最後の打席は、涙の三振だった。
4勝1敗で、北海道日本ハムは、44年振り2度目の日本一になった。
日本ハム入団時に、新庄が約束した「札幌ドームを満員にする」、
「日本ハムを日本一にする」という2大公約を実現して、現役を引退。
まさに幸運の新庄ならでわの伝説であり、最大の美学だなと思った。
新庄胴上げ
新庄剛志、福岡県出身。A型。右投げ右打ち。外野手。
1972年1月28日、長崎県対馬市生まれ。
西日本短大付高では、甲子園出場の経験無し。
1989年、ドラフト5位で阪神タイガースに入団。背番号は63。
92年に亀山努と共に「亀新フィーバー」を起こし、人気者になった。
93年から、背番号を5に変更。ずっとセンターを守る。
01年、アメリカメジャーリーグのニューヨーク・メッツに入団。
02年にサンフランシスコジャイアンツ、03年にメッツと渡り、
04年から、北海道日本ハムファイターズに所属した。

不思議な雰囲気と、独特な派手さをもったキャラクターで、
インタビューでの「○○打法」発言は面白かった。
交流戦での「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」には感動した。
スパイダーマンや秘密戦隊ゴレンジャーの覆面を被ったり、変なベルトをしたり、
そのパフォーマンスも、ファンをおおいに楽しませてくれた。

強肩と俊足を生かした球界屈指の守備力は脅威的だった。
外野手だが、遊撃手に転向した時期もあり、
99年には二塁を守ったこともあり、00年のオールスターでは、
三塁を守っていたし、内野なら何処でもOKみたいな感じがしていた。
そのうえ、野村克也監督時代に、オープン戦で投手として登板。
その時の球速は142キロを記録した。まさにオールマイティ。
縦ジマの新庄
ベストナイン賞は、3回(93年、00年、04年)。
ゴールデングラブ賞8回(93年、94年、96〜00年、04年、05年)。
オールスター出場は7回(94年、97年、99年、00年、04〜06年)。
ナショナル・リーグ新人ベストナイン(01年)と、記録はある。
が、首位打者や本塁打王などの、個人タイトルを獲得した事は一度も無い。
打率は3割を超えた事は無いし(2004年、2割9分8厘)、
ホームランも30本を上回った事が無い(2000年、28本)。
かつての指揮官・野村克也には「打撃以外は一流」と評された。
99年の巨人戦で槙原投手から「敬遠球サヨナラ安打」を放ったり、
「明日も勝つ!」発言で、連敗するジンクスが生まれたり、
新庄には色々と面白い記憶が沢山残っている。
彼自身が彼自らを語るように、記録では無く『記憶に残る』タイプの選手だった。

先週の日本シリーズ、北海道での瞬間最高視聴率は驚異の73.5%。
小笠原道大、セギノール、稲葉篤紀などと比べると、
打撃面での貢献こそ無かったけど、ここまでファンをひきつけた、
新庄のパフォーマンスや幸運度が、日ハムを優勝へと導いたとも思う。
新庄の目にも涙
そんな新庄の最後の試合、10月26日、日本シリーズ第5戦。
17年前の阪神入団時、初任給の中から1万2000円払って購入し、
修理・補修を繰り返し使ってた、外野用グローブを使用。
日本シリーズ終了後の翌10月27日の記者会見では、
「こいつと17年間やってきて、こいつがもう限界だと言ってきたので、
引退を決意した」と発言した。なんとも新庄らしい言葉で感動した。
そのグローブの親指部分には、「TH63」が書いてある。
タイガースの「T」阪神の「H」当時の背番号「63」、これまた感動。

新庄には、芸能界や実業界、はたまた政界からも声がかかるなど、
野球界以外にも、幅広くカリスマ性を持っている。
今後、『CMだけやってる男』で終わるとは、とても思えない。
どんなサプライズが待っているのやら、楽しみではある。
でも、やっぱりもう野球をしないってのは、寂しいものがあるのも確か。
これ程までに、ユーモアと遊び心を持った選手は、
今後もう出てこないかもしれない。新庄は、本当に華があった。
ずっと楽しませてくれてありがとう!

(2006/10/30)

▲ページトップへ移動
★タイガーストーク一覧
★タイガースTOPに戻る
◆HOMEに戻る
inserted by FC2 system