今でこそ、やれ連覇ならずとか、2位で残念とか言ってる訳だが、 1990年代の阪神タイガースは、Aクラスどころか、 最下位脱出すら困難な、暗黒時代がずっと続いていたのだ。 そんな暗黒時代の阪神タイガースに、華のある選手がいた。 その名は新庄剛志。愛称「プリンス」。 その新庄が、今年の日本シリーズの勝利をもって引退した。 日ハムのユニフォームに、赤いリストバンド姿。 最後の打席は、涙の三振だった。 4勝1敗で、北海道日本ハムは、44年振り2度目の日本一になった。 日本ハム入団時に、新庄が約束した「札幌ドームを満員にする」、 「日本ハムを日本一にする」という2大公約を実現して、現役を引退。 まさに幸運の新庄ならでわの伝説であり、最大の美学だなと思った。 1972年1月28日、長崎県対馬市生まれ。 西日本短大付高では、甲子園出場の経験無し。 1989年、ドラフト5位で阪神タイガースに入団。背番号は63。 92年に亀山努と共に「亀新フィーバー」を起こし、人気者になった。 93年から、背番号を5に変更。ずっとセンターを守る。 01年、アメリカメジャーリーグのニューヨーク・メッツに入団。 02年にサンフランシスコジャイアンツ、03年にメッツと渡り、 04年から、北海道日本ハムファイターズに所属した。 不思議な雰囲気と、独特な派手さをもったキャラクターで、 インタビューでの「○○打法」発言は面白かった。 交流戦での「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」には感動した。 スパイダーマンや秘密戦隊ゴレンジャーの覆面を被ったり、変なベルトをしたり、 そのパフォーマンスも、ファンをおおいに楽しませてくれた。 強肩と俊足を生かした球界屈指の守備力は脅威的だった。 外野手だが、遊撃手に転向した時期もあり、 99年には二塁を守ったこともあり、00年のオールスターでは、 三塁を守っていたし、内野なら何処でもOKみたいな感じがしていた。 そのうえ、野村克也監督時代に、オープン戦で投手として登板。 その時の球速は142キロを記録した。まさにオールマイティ。 ゴールデングラブ賞8回(93年、94年、96〜00年、04年、05年)。 オールスター出場は7回(94年、97年、99年、00年、04〜06年)。 ナショナル・リーグ新人ベストナイン(01年)と、記録はある。 が、首位打者や本塁打王などの、個人タイトルを獲得した事は一度も無い。 打率は3割を超えた事は無いし(2004年、2割9分8厘)、 ホームランも30本を上回った事が無い(2000年、28本)。 かつての指揮官・野村克也には「打撃以外は一流」と評された。 99年の巨人戦で槙原投手から「敬遠球サヨナラ安打」を放ったり、 「明日も勝つ!」発言で、連敗するジンクスが生まれたり、 新庄には色々と面白い記憶が沢山残っている。 彼自身が彼自らを語るように、記録では無く『記憶に残る』タイプの選手だった。 先週の日本シリーズ、北海道での瞬間最高視聴率は驚異の73.5%。 小笠原道大、セギノール、稲葉篤紀などと比べると、 打撃面での貢献こそ無かったけど、ここまでファンをひきつけた、 新庄のパフォーマンスや幸運度が、日ハムを優勝へと導いたとも思う。 17年前の阪神入団時、初任給の中から1万2000円払って購入し、 修理・補修を繰り返し使ってた、外野用グローブを使用。 日本シリーズ終了後の翌10月27日の記者会見では、 「こいつと17年間やってきて、こいつがもう限界だと言ってきたので、 引退を決意した」と発言した。なんとも新庄らしい言葉で感動した。 そのグローブの親指部分には、「TH63」が書いてある。 タイガースの「T」阪神の「H」当時の背番号「63」、これまた感動。 新庄には、芸能界や実業界、はたまた政界からも声がかかるなど、 野球界以外にも、幅広くカリスマ性を持っている。 今後、『CMだけやってる男』で終わるとは、とても思えない。 どんなサプライズが待っているのやら、楽しみではある。 でも、やっぱりもう野球をしないってのは、寂しいものがあるのも確か。 これ程までに、ユーモアと遊び心を持った選手は、 今後もう出てこないかもしれない。新庄は、本当に華があった。 ずっと楽しませてくれてありがとう! (2006/10/30) |
File.22 プリンスは終わらない
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